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《大正天皇实录》解禁

6月27日 19時03分

13年前に公開された大正天皇の活動記録、「大正天皇実録」について、宮内庁は個人情報の保護などを理由に一部を黒塗りにした当時の措置を見直し大部分を公開しました。病弱で悲運の天皇として知られる大正天皇の体調や病状、未発表の動静などの詳細が明らかになりました。

13年前被公开的大正天皇的活动记录《大正天皇实录》,当时宫内厅以保护个人隐私等为由,将其中一部分内容涂黑,现如今,这些被涂黑的内容大部分已经被公开了。这些内容详细记录了以体弱多病命运悲惨的天皇的形象而为人所知的大正天皇的身体状况,病状,和未公布的情况。

大正天皇実録は大正天皇が47歳で崩御するまでの日々の動静を記した公式の記録集で、平成14年から公開されましたが、個人情報の保護などを理由に全体のおよそ3%が黒く塗りつぶされていました。

《大正天皇实录》是记录大正天皇每天情况的官方记录集,记录一直持续到其47岁逝世,自平成14年开始被公开,但以保护个人隐私等为由,全部内容的约3%被涂黑了。

一方、去年完成した昭和天皇実録は個人情報にあたるものも可能なかぎり、公開するとして黒塗りは行われず、NHKでは大正天皇実録についても同じ基準で公開するよう申請し、宮内庁は当時の措置を見直して黒塗り部分のおよそ8割を解除しました。

同时,在去年完成的《昭和天皇实录》中,类似于个人信息的内容,尽可能地被公开而没有进行涂黑,NHK内部就《大正天皇实录》申请以相同的标准进行公开,宫内厅重新审视了当时的作法,将涂墨部分约80%的内容进行了公开。

この中には、病弱だった大正天皇が事実上、引退する原因となった発語障害や歩行困難などの体調の異状や、晩年の脳貧血の病状などが詳しく記されている箇所もあります。

其中,有些地方详细记载了体弱多病的大正天皇退职的事实上的原因:发音障碍,步行困难等身体上的异常,和晚年脑贫血等。

また、即位後、元老の山県有朋などの要人と頻繁に会っていたことや、第1次世界大戦について軍の幹部から、たびたび説明を受けていたことなども分かりました。

另外,还有即位后,与山县有朋等元老要人频繁的会面,从军队干部那里经常听取关于第一次世界大战的情况等,也都记录在案。

こうした動静について宮内庁は「公式には発表されていない私的なものだ」として、当初、黒塗りにして公開を見送ったということです。

关于这些情形,宫内厅表示是因为“是未正式公开的私人物品“,所以当时进行了涂黑操作后才公开。

近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「本来公開されるべき情報が長年伏せられていたことは大きな問題だ」としたうえで、今回、黒塗りの大部分が公開されたことについて、「戦前の天皇は最高の公人であり、実質的に活動していた時期を中心に多くの記述が読めるようになったことは、当時の国の動きや大正天皇の人物像の研究を深める手がかりになる」と話しています。

近现代史专家,日本大学的古川隆久教授说“本来应该公开的信息被长期隐藏,这是个大问题“,这次,对于涂黑部分内容的大部分被公开,又说道:“战前 的天皇是地位最高的公职人员,能够读到以实际活动时期为中心的众多记述,是深入研究当时国家的动态及大正天皇的人物形象的线索。“

大正天皇実録とは什么是《大正天皇实录》大正天皇実録は天皇陛下の祖父、大正天皇の日々の動静を記した公式の記録集で、昭和2年から昭和12年まで10年余りかけて当時の宮内省が編さんしました。

《大正天皇实录》是记录天皇陛下的祖父大正天皇每日情况的官方记录集,自昭和2年开始到昭和12年10余年间,由当时的宫内部编纂。

明治12年の誕生から大正15年の崩御までの47年余りの活動が年代順に日誌のようなかたちで記されていて、本編は85巻5000ページ余りからなります。

自明治12年出生到大正15年去世,47余年的活动以年代为序,用日志的形式记录,主体部分由85卷共5000多页写成。

長らく公開されませんでしたが、情報公開法の施行を受けて平成14年から段階的に公開され、今は全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵され、閲覧やコピーをすることができます。

虽然有很长时间没有公开,但在信息公开法施行后,自平成14年就进行了阶段性公开,如今全卷收藏于皇居宫内公文书馆内,可供人阅览以及复印。

ただ、個人情報の保護などを理由に一部は黒く塗りつぶす措置が取られていて、すでに書籍になっている明治天皇紀や、ことし3月から段階的に出版が始まった昭和天皇実録とは違い、今のところ出版の計画はありません。

但是,和以保护个人信息为由而涂黑一部分然后作为书籍出版的《明治天皇纪》,以及今年3月开始进入阶段性出版的《昭和天皇实录》不同,《大正天皇实录》目前没有出版计划。

成績の報告書なども公開成绩单等被公开大正天皇は歴代の天皇で初めて学校に通いました。

大正天皇是历代天皇中第一个去学校上学的天皇。

明治26年7月、学習院初等科の卒業式のあとの記述は21ページにわたって全文が伏せられていました。伏せられていたのは父親の明治天皇に宛てられた学校の成績などの報告書で、今回、成績の順位とみられる箇所を除き、ほぼすべてが公開されました。

明治26年7月,学习院初等科毕业典礼之后的记述,21页全文都被隐藏。其内容是寄给父亲明治天皇的学校成绩单等,这一次,除了成绩排名的地方外,其它内容基本都被公开了。

大正天皇は明治20年、8歳で今の小学2年生に当たるクラスに編入されましたが、病気で83日欠席し、進級試験も受けられなかったため、留年することになったと記されています。

大正天皇是在明治20年,8岁的时候被编入班级的,相当于现在的小学2年级,但由于生病缺课83天,进级考试也没有参加,所以留级了。

その後、体調が安定して進級を重ね、4年生のときには1年間、1日も休まず、「学期末の御成績も著しく」、「精勤証書」、つまり、皆勤賞を受けたと書かれています。

之后,身体状况稳定下来,连续进级,在4年级的时候全年没有休息一天,“期末成绩拔尖“,“全勤证书”,也就是得了全勤奖。

しかし、6年生になると再び大きな病気をして12月から3月まで74日間にわたって欠席していました。

然而,6年级时,再次生了大病,12月到次年3月间缺勤74天。

成績が心配されたが、回復後は心身の気力が以前にも増し、卒業できたと記されています。

虽然担心成绩,但恢复后身心比以前更强健,得以毕业。

山県有朋と頻繁に面会も和山县有朋频繁的会面今回、公開された記述からは、大正天皇が即位後、多忙な日々を送っていたことがうかがえます。

从这一次公开的记述可以看出,大正天皇即位后,生活过得很忙碌。

「大正4年1月3日」の動静は日付以外、すべて黒塗りにされ内容が伏せられていましたが、元老の山県有朋の拝謁を受けたあと、晩さんをともにしていたことが分かりました。

“大正4年1月3日”的记录,除了日期外,内容全部都被涂黑了,但是可以知道大正天皇接受了元老山县有朋的进见后,与其一起吃了晚餐。

長州出身で陸軍元帥の山県は当時、元老の筆頭格として枢密院議長を務めていて、政治や軍事などで事実上、最高決定権を持つ立場にいました。

长州出身的山县有朋是陆军元帅,当时以第一元老的身份任机密院议长,在政治及军事等方面,实际掌握着最大决定权。

軍事にあまり興味がなかったとされる大正天皇は、山県と疎遠だったと考えられていましたが、実録では「以後こういうことがしばしばあった」と記され、即位後、頻繁に会っていたことが分かりました。

对军事并不感兴趣的大正天皇,被认为和山县的关系疏远,但实录上记载”以后这样的事情经常发生”,从而知道了即位后两人频繁会面的事实。

また、同じ年の4月30日には海軍の幹部から第1次世界大戦の情勢について説明を受けていたことが分かりました。

另外还知道了同年4月30日,从海军干部那里听取了关于第1次世界大战形势说明的事情。

掲載されている一覧表には、その後、大正天皇が聞いた軍事に関する説明の数々が列記されていました。

在登载的一览表中,之后大正天皇听取军事相关的说明,很多条都被罗列记录下来了。

大正天皇は即位後、多忙な日々を送るなか心労が重なって体調を崩したと、当時の宮内省が発表していましたが、今回公開された記述からはその一端がうかがえます。

大正天皇即位后,在忙碌的每日中,心劳渐渐,身体累垮,当时的宫内部发布了这样的内容,在这次公开的记述中也能窥见其端。

体調や病状の詳しい記述も身体状况与病症的详细记述今回、公開された中には病弱だった大正天皇の体調や病状に関する詳しい記述もあります。

这次公开的内容中也包含有病弱的大正天皇身体状况和病状的详细记述。

このうち、大正7年、38歳のとき、静養で日光の御用邸に滞在した際には、「一昨年頃から発語障害や歩行困難などの異状があり、それが治らないため滞在中はほとんど遠出をしなかった」という内容の記述がありました。大正天皇はその後、病状が悪化して大正10年、皇太子、のちの昭和天皇を摂政にして事実上、引退します。

其中记载了大正7年,38岁的时候,在日光御用邸停留静养之时,”自前年开始出现了发音障碍和步行困难等异常,无法根治所以停留期间基本没出远门”的内容。之后,大正天皇病状恶化,大正10年,皇太子,即之后的昭和天皇摄政,大正天皇进入了事实上的引退。

崩御の1年前、大正14年12月に起きた脳貧血の発作については、当時の発表では軽症だったとされ、実録では日付けと「脳貧血にて」「漸次御恢復あり」という部分以外、黒塗りにされていました。

去世1年前,关于大正14年12月的脑贫血发作,当时以轻病症进行公布,实录里面除了日期和”由于脑贫血”,“渐次恢复”等部分,其余内容都被涂黑。

ところが、今回、黒塗りが解除されたことで「一時人事不省」に陥り、3か月余り寝たきりの状態になるほどの重症だったことが分かりました。

但由于这次将涂黑的部分公开了,陷入”一时人事不省”的状态,卧床3月有余的重症的情况为人所知了。

当時の黒塗りの判断に疑問も对当时涂黑操作的疑问今回、黒塗りが解除された中には重要な情報が秘められているのではないかという専門家の予想が裏切られた箇所もありました。

这次公开的内容中,有些地方让想象有重要信息的专家的期望落空了。

大正4年に行われた即位の儀式では、皇祖神の天照大神に即位したことを告げる御告文を読む場面で、1か所だけ6文字分の黒塗りがありました。

在大正4年进行的即位仪式上,向皇祖神天照大神报告即位的告文的阅读场面中,只有一个地方有6个文字被涂黑了。

今回、解除されて出てきたのは、「玉音高らかに」と単に読み上げる様子を描写しただけのことばでした。

这次的公开显示出,这只是描写诵读时的样子的语句”天皇的声音响亮地”而已。

宮内庁は、「その場にいた関係者しか知らないことで、発表されていないので黒塗りにした」としています。

宫内厅表示,”这是只有当时在场的人才知道的事情,因当时没公开故作涂黑处理”。

日本大学の古川隆久教授は、「天皇にとって、いちばん大事な儀式で情報が伏せてあったので、よほどのことが書いてあるのではないかと想像していたが、肩透かしだった。宮内庁の当初の黒塗りの判断が形式的すぎて無意味だったという典型例だ」と話しています。

日本大学古川隆久教授说:”这是对于天皇而言最重要的仪式,相关的信息被隐藏起来,可以想象应该是有什么了不得的信息吧,然而并非如此。宫内厅当时的涂黑判断太过于形式化,毫无意义,这就是一个典型的例子。”

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