この記事では第六天魔王の由来と、織田信長が魔王と名乗った理由について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「なぜ織田信長が、魔王を名乗らなくてはいけなかったのか」を、カンタンに理解できます。
実は「織田信長」は「仏教徒や民衆を守るために魔王を名乗った」かもしれないのです。
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この記事を短く言うと
1,織田信長が「魔王」と呼ばれた理由とは?
信長は、「武田信玄」との手紙のやり取りで、「天台座主」と名乗る信玄に対して「第六天魔王」と、自ら名乗っていた
2,「第六天魔王」とは何か?
「第六天魔王」とは、「波旬(はじゅん)」という名前の、仏教の敵。仏教の修業をする僧侶の邪魔をする、天界に住む魔物
3,信長が「第六天魔王」と名乗ることで、言いたかったこととは?
信長は、「第六天魔王」と名乗ることで、「信玄」に対して、「比叡山延暦寺」などの宗教勢力が腐敗しきっていたことを伝えたかったのではないか
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目次
第六天魔王とは何か?由来をわかりやすく簡単に解説
「第六天魔王」とは、「仏教」において、「仏法を阻害する魔王」または「仏教徒の修行を邪魔する悪魔」と呼ばれる存在です。
「第六天魔王」を省略して「天魔」と呼ぶこともあります。
《第六天魔王・波旬》
「引用元ウィキペディアより」
この絵は、「葛飾北斎」が描いた「第六天魔王」の絵です。
龍のような姿をしたのが「第六天魔王」です。実は名前があります。
「波旬(はじゅん)」という名前です。
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「第六天」とはどういう意味かというと、「6番目の天界」ということ。
「天界」には、6つの世界が存在し、それぞれが「欲望」に支配され苦しんでいました。
「第六天」とは、その6つの世界の中でも最高位に位置する世界のことです。
「天界」と聞くと、「神々が住んでいる天空の世界」というイメージを抱きそうですが、そうではなく、煩悩や憂いや欲望にまみれた世界なのです。
「第六天魔王・波旬」は、この「天界」に住んで、「仏教徒の修行を邪魔する悪魔」だといわれています。
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織田信長が魔王と呼ばれた理由を解説!実は自分で名乗っていた?
よく「魔王」と呼ばれる「織田信長」ですが、実は自ら「魔王」を名乗っていたのでした。
《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
残酷な弾圧や虐殺を繰り返した戦国武将「織田信長」は、後世において「魔王」と呼ばれていました。
なぜ「魔王」と呼ばれるようになったのかというと、【1573年】、ライバルの「武田信玄」への書状に「第六天魔王」と自分で記して、自ら名乗ったためです。
「延暦寺焼き討ち」をご存知でしょうか?
織田信長は、当時日本で最高峰の地位にあった仏教の聖地「比叡山延暦寺」を焼き討ち、つまり「虐殺」を行なっています。
これを痛烈に批判したのが「武田信玄」です。
武田信玄
引用元ウィキペディアより
クリックすると拡大できます
武田信玄は、もともと「武田晴信」という名前でしたが、出家して僧侶となり、「信玄」という法名を名乗っていたのです。
そして信玄は、自らを「仏教を守る守護者である」と自認していたのでした。
そんな信玄が、織田信長の「比叡山延暦寺焼き討ち」を猛烈な勢いで批判したのです。
信玄は「信長を批判する手紙」を、信長に宛てて送りつけています。
そこには「天台座主(てんだいざす)」と書かれていました。
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「天台座主」とは、天台宗でもっとも偉い人の肩書です。
そして「比叡山延暦寺」は、「天台宗」のお寺です。
信玄は、「延暦寺で最も偉い僧侶である」と、主張したかったのでしょう。
ところが実は、信玄はこのとき「天台座主」などではありませんでした。
つまり信玄は、嘘をついたのです。
信長はこの「天台座主」と名乗った「信玄」の手紙に対して、「第六天魔王・織田信長」と記した手紙を送り返しているのです。
「信長が魔王と呼ばれる理由は、自ら名乗っていたから」
もちろん、魔王と呼ばれる理由は「自ら名乗ったから」だけではなく、その名にふさわしい行為を繰り返していたからでしょう。
虐殺・弾圧・破壊・・・。
信長の仏教徒への攻撃は、とどまるところを知りませんでした。
父「織田信秀」の葬儀で、位牌にむけて「お香」を投げつけるほど、信長はバチあたりな人だったのです。
しかし実は、信長は「第六天魔王」を名乗ることで、「仏教徒」を守ろうとしていた可能性があるのです。
信長の父「織田信秀」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ。
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信長が武田信玄に、本当に言いたかったこととは?
織田信長は、武田信玄に対して「第六天魔王」と名乗ることで、堕落しきった仏教徒たちの現実を知らない信玄を批判したのではないでしょうか。
戦国時代の宗教勢力は、悪どい者ばかりだった
当時の仏教徒は、誰しもが真面目に修行していたわけではありません。
それどころか「僧侶」という身分を利用して、自らの利益や欲望を満たす者たちが、数多くいたのです。
当時の「比叡山延暦寺」や「石山本願寺(一向宗・浄土真宗)」は、信者からの圧倒的な支持を背景にして、領地や利権を数多く持ち、凄まじい力で政治にまで介入していたのです。
どのようにして政治に介入していたのかというと、「民のための政治を行え」と言っていたわけではなく、「我々にとって都合の良い政治を行え」と言い続けていたのです。
「強訴(ごうそ)」
比叡山延暦寺は、朝廷が自分たちに都合のわるい政治を行おうとすると、神が乗るという「神輿(しんよ・みこし)」をかついで、京都の入り口に放置しました。
これを「強訴」といいます。
なぜこんなことをしたのかというと、当時は「祟(たた)り」や「天罰」が本気で信じられていたからです。
下手に神様の乗る「神輿」に近づいたりしたら、どんな「祟り」や「天罰」が起こるかわかりません。
そのため、「神輿」が置かれた京都の大通りは、人通りがなくなってしまったのです。
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大通りを「お神輿(みこし)」でふさがれた朝廷は困り果て、結局は「比叡山延暦寺」の言うことを聞くしかなくなったのです。
「鴨川の水・サイコロの目・山法師(延暦寺)、この3つ以外は、全て私の思いのままだ」
この言葉は、平安時代に絶大な権力を握った権力者「白河法皇」の言葉です。(白河法皇は、平清盛の実父という説がある)
「院政」という政治手法で、圧倒的な権力を握った「白河法皇」ですらも、「延暦寺は思いのままにならない」と嘆いています。
それほど、当時の宗教勢力は、力を持っていたのです。
平安時代末期に絶大な権力を握った「平清盛」は、小説家「吉川英治」の小説の中で、この「神輿」にたいして、矢を放った人物として描かれています。(実際には、平家の家来たちの矢がたまたま当たっただけで、平清盛が矢を放ったわけではない。神宝を破壊する行為は当時、即処刑という厳しいものだった)
大河ドラマ「平清盛」で、俳優「松山ケンイチ」さんが演じた「清盛」は、強訴を行う僧侶たち(武蔵坊弁慶たち)がかついでいた「神輿(しんよ)」に向けて矢を放ち
「あんなものは、ただの箱だ」
と言い放っていました。
「比叡山延暦寺」などの宗教勢力は、神や仏の力を利用して、自らに都合の良い政治を朝廷にやらせ、利権を確保し、私腹を肥やしていたのです。
これは「戦国時代」、すなわち「織田信長」が生きていた時代も、変わっていませんでした。
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「比叡山延暦寺」は、広大な領地をもつ「高利貸し業者」だった
実は「比叡山延暦寺」は、「高利貸し」、つまり今でいうところの「金融業者」でした。
延暦寺は、各地に「荘園」と呼ばれる領地を数多く持っていました。
「荘園」とは、すなわち「私有地」のこと。この「荘園」から生みだされた産物は、税金を納めなくてもよい、いわゆる「租税回避地(タックスヘイブン)」でした。
昔は、「お寺や神社に高額なお金をお布施として納めないと、天国に行けない」と、本気で考えられていたのです。
そのため権力者たちは、莫大な領地(荘園)やらお金を、延暦寺に対して寄進、つまりプレゼントしていたのです。
そこから生みだされたお金を、延暦寺は「高金利」で貸し出し、さらに莫大な利益を生み出していたのです。
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金を返せない者たちが出た場合は、力づくで金を回収するため、比叡山は「僧兵」と呼ばれる私設軍団を持っていたほどです。
延暦寺は、当時「高利貸し・金融業者」、「荘園からの収入」、「琵琶湖の水運業者」などを行い、金を山ほど持っていたのです。
延暦寺は「聖地」ではあるものの、その「聖地」というブランドと特徴を利用して、私腹を肥やす者たちに隠れ蓑にもなっていたのです。
「延暦寺焼き討ち」で先陣をきった「明智光秀」の末裔を自称する「明智憲三郎」さんは、「延暦寺」が悪徳業者であったことを、マンガ「信長を殺した男」の中で解説しています。
信長を殺した男(第1巻) 本能寺の変431年目の真実 (ヤングチャンピオンコミックス) [ 藤堂裕 ]
当時の時代背景を解説してくれる、とてもおもしろい作品でした。
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信長は、「私腹を肥やす僧侶」たちに鉄槌を下し、信玄はわかってなかった
織田信長が、「比叡山延暦寺」を焼き討ちした理由は、延暦寺が信長の宿敵である「浅井長政」と「朝倉義景」の軍団を、比叡山にかくまったことがきっかけです。
「延暦寺」は、浅井・朝倉に味方し、その軍団を「聖地」である比叡山にかくまうことで、信長と敵対したのでした。
信長は、延暦寺に対して、「浅井・朝倉へ味方するな。もしも浅井・朝倉軍を追い出せないのなら、せめて山から退去せよ」と要請します。
しかし「延暦寺」はこの要請を、1年もの間、無視。
挙句の果てには、「延暦寺焼き討ち」の直前に、黄金を信長に贈って、焼き討ちを中止させようとしたほどです。
激怒した信長は、「延暦寺」を攻撃。
「明智光秀」を先頭にたてて攻撃し、僧侶や女子供あわせて3000人を虐殺したといわれています。
信長は、「浅井・朝倉をかくまった」ことに怒っただけではありません。
仏教徒らしく、真面目に仏教の修行をせず、長い間「私腹を肥やしていた」当時の延暦寺すべてに激怒していたのでしょう。
だからこそ、信長は延暦寺の不良僧侶たちに、鉄槌を下したのだと考えられます。
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ここからは筆者の完全な推測です。
信長は、「信玄」が、「延暦寺焼き討ち」という事実のみを批判したことに怒っていたのです。
そうなった事情について全く知らないくせに「天台座主」などと、ありえない肩書を名乗って自分を批判したことに、うんざりしたのではないでしょうか。
「第六天魔王」と名乗ったのは、つまり武田信玄に対して、こう言いたかったのではないでしょうか。
「信玄さん、あんた延暦寺がどれほど腐りきっているのか知らないのか?
平清盛が、強訴をおこなった延暦寺の不良坊主たちに、矢を放ったことを知らないのか?
あんたは何もわかっていない。
出家して【信玄】という立派な名前をもらったのだろう?
だったら、なぜ俺が延暦寺を攻撃したのか、その理由をしっかり理解して、延暦寺に苦しめられてきた人々を救うべきだろう。
それが、【天台座主】という延暦寺のトップを自称するアンタの、真の役目じゃないのか!」
信長が「第六天魔王」と記した手紙は、現存していません。
この「信玄が天台座主と名乗った」、「信長が第六天魔王と名乗った」という逸話は、宣教師「ルイス・フロイス」の残した資料に記されただけのものです。
もしかすると、織田信長が「第六天魔王」と名乗った事実はないかもしれないのです。
しかし、もしも本当であるなら、信長は「第六天魔王」を名乗って、不良僧侶に鉄槌を下したことを、信玄にわからせようとしたのではないでしょうか。
余談ですが、「織田信長」は、「平清盛の子孫」を自称していました。もしも本当に平清盛の子孫なら、織田信長は紫式部の子孫でもあるということになりますが、くわしくは以下のリンク記事で解説しております。
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実は信長は、「魔王」を名乗ることで、真面目な仏教徒を守ろうとした!
「第六天魔王」という悪魔ですが、「日蓮宗」という宗派では、「仏教を守る神様」と考えられています。
「日蓮」とは、鎌倉時代に「蒙古襲来(元寇)」を予言した「日蓮宗」の開祖です。
鎌倉幕府の8代執権「北条時宗」の父親「北条時頼」に対して、「立正安国論」という政治のやり方(政策)をすすめた人物です。
その日蓮が言うには、「第六天魔王」は「仏教を阻害する魔王ではなく、仏教を守る存在である」と言っているのです。
どういうことでしょうか?
日蓮が言うには、
「第六天魔王が仏教の修行を邪魔しても、本気で修行するものは、そんな障害を乗り越えていくものだ。
そしてその障害を乗り越えた僧侶は、さらに強く優秀になる。
つまり、第六天魔王の障害は、僧侶をさらに強く成長させるきっかけになる。
第六天魔王は、仏教を邪魔しているように見えるかもしれないが、実は仏教を守る存在なのだ」
この主張を、信長は知っていたのでしょうか?
筆者の推測ですが、おそらく信長は知っていたと思います。
なぜなら、織田家の菩提寺である愛知県名古屋市の「萬松寺(ばんしょうじ・万松寺)」は、日蓮宗のお寺だからです。
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つまり織田家は、もともと日蓮宗の家柄。
信長は、仏教を弾圧した虐殺者だと勘違いされていますが、実際には「誰から構わず仏教徒を弾圧した」わけではありません。
信長はこれらの勢力を弾圧はしたものの、政治に口出しせず、真面目に修行していた「鑑真」のひらいた「唐招提寺」などは、全く攻撃を受けていません。
つまり信長は、「第六天魔王」を名乗ることで
「不良僧にとって、私は障害とはなる。
しかし真面目に修行している僧侶に対してなら、私は守り神になる」
と言いたかったのではないでしょうか。
実は近年の研究によると、「織田信長」という人は、きわめて真面目な人だったという説があります。
真面目な信長は、マジメにやらない連中に対して、とても厳しかったといわれています。
真面目な人ほど、不真面目な人に厳しいものです。
もしかすると信長は、マジメに修行しない僧侶や、仏教で国を救おうとしない不真面目な僧侶が、ただただ許せなかっただけなのかもしれません。
「鑑真」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
『【鑑真和上とは】来日理由と失明した理由・原因をわかりやすく解説!』の記事はコチラ
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まとめ
本日の記事をまとめますと
,織田信長は、「武田信玄」との手紙のやり取りで、「天台座主(天台宗のトップ)」と名乗る信玄に対して「第六天魔王」と、自ら名乗っていた,「第六天魔王」とは、「波旬(はじゅん)」という名前の、仏教の敵。仏教の修業をする僧侶の邪魔をする、天界に住む魔物,信長は、「第六天魔王」と名乗ることで、「信玄」に対して、「比叡山延暦寺」などの宗教勢力が腐敗しきっていたことを伝えようとしたのではないか
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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